姫路城は、日本の百名城の一つで国の特別史跡やユネスコの世界文化遺産(平成5年)に登録されいています。また大天守を始めとした天守や渡櫓の8棟が国宝に、渡櫓や櫓、土塀など74棟が国の重要文化財に指定されています。
別名を白鷺城(しらさぎじょう・はくろじょう)といいます。別の名の由来には、①城壁の白漆喰の美しさから②姫路城が鷺山に置かれたことから③岡山城の別名「烏城(うじょう)」との対比から、などといわれています。
姫路城の城主は、1346年に入場した赤松貞範(あかまつさだのり)からはじまり、版籍奉還が行われたときの酒井忠邦(さかいただくに)まで約530年間に13氏48代の城主がいました。戦国時代の終わりには黒田孝高(くろだよしたか・別名:黒田官兵衛)が城主となり、のちに中国攻略のために羽柴秀吉に献上されました。秀吉が城主時代に城郭に石垣を取り入れるなどの大改修を行い、現在の大天守もこのときに建てられました。また「姫路城」と改名したいわれています。
その後、江戸時代に入っても、中国地方の外様大名の監視のために城主が幼少や病弱では務まらないとされ、頻繁に城主の入れ替えが行われました。
明治時代に入ると廃城令により競売で一度は23円50銭で落札されましたが、解体費用が莫大にかかるなどの理由で払い下げられることはありませんでした。
その後は、三の丸を中心に日本帝国陸軍の部隊が置かれ、終戦まで使用されています。
姫路城自体は、安土桃山時代・幕末時代・太平洋戦争と大きな戦火にあうことなく、現在に至っています。
太平洋戦争中には、空襲の目標にされないように白く目立つ壁を黒く染めた偽装網で覆い隠して空爆から守られました。
昭和20年7月3日の姫路空襲では、城内にあった中学校の校舎が焼失しましたが、大天守は焼夷弾が落ちるも奇跡的に不発で焼失を免れました。
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