岡山城は、旭川(あさひがわ)沿いに建てられた平山城で別名を「烏城(うじょう)」や「金烏城(きんうじょう)」といいます。天守閣は、昭和6年に国宝に指定されましたが、昭和20年に空襲により焼失し、現在の天守閣は昭和41年に鉄筋コンクリートで再建されたものです。
現在は、本丸部分のみが烏城(うじょう)公園として残されています。一の丸や二の丸は市街地として開発され、外堀などのお堀も埋め立てられました。
旭川の対岸には、日本三名園でしられる岡山後楽園があります。
また岡山城の本丸があった岡のような山から、城下町を含めた岡山城一帯を岡山と呼ぶようになったことが岡山の地名の由来といわれています。
■岡山城について
宇喜多直家(うきたなおいえ)が、主君だった金光宗高(かねみつむねたか)を謀殺し、亀山城(沼城とも呼ばれる。現在の岡山市東区)より石山城(のちの岡山城)に入城。その後、城の改築と城下町の形成を始め、また備前から商人を呼び寄せ城下町を発展させたといわれています。53歳で他界すると長男・秀家(ひでいえ)が家督を引継ぎます。
秀家は、秀吉に寵愛され元服した際に秀吉の猶子(ゆうし・本当の親子関係のような制度)を結び、名も秀吉から「秀」の字をもらい秀家と名のります。のちに秀吉の養女(前田利家の実子)である豪姫が正室となります。豊臣政権下の末期には五大老と呼ばれ、関ヶ原の戦いで破れるまで豊臣勢の中心人物として活躍します。その後は八丈島へと流刑となり83歳でなくなります。
江戸時代に入ると小早川秀秋が領主として入場すると城の改築を行い、農民だけでなく武士も使役し20日間で外堀を完成させたといわれています。そのため廿日堀(はつかぼり)と呼ばれました。現在は埋め立てられ国道180号線となっています。
その後、小早川家に跡継ぎがいなかったため断絶となり、播磨姫路藩の藩主・池田輝政の次男忠継(ただつぐ)が入城し初代備前岡山藩の藩主となり、幕末まで池田家が治めます。
また池田綱政(いけだつなまさ)の時代に、藩庭として日本三名園の一つで知られる後楽園が造営されます。
明治以降は、廃城令により外堀は埋められ城下町は市街となり、本丸部分のみが残されます。
太平洋戦争時には、国宝に指定されていた天守閣が、昭和20年6月29日の岡山空襲により焼失。
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