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鶴ヶ城(つるがじょう)【福島県会津若松市】

鶴ヶ城は、平城で正しくは「若松城」といいます。現在の天守閣は、昭和35年に建てられたもので、内部は「若松城天守閣郷土博物館」となっています。また若松城跡として国の名勝に指定されています。

鶴ヶ城の始まりは、1384年に当時会津を治めていた氏族の蘆名(あしな)氏7代当主・蘆名直盛(なおもり)によって建てられた館が始まりといわれています。当時の地名が黒川だったため東黒川館と呼ばれていました。その後、蘆名氏は、伊達政宗によって滅ぼされますが豊臣秀吉によって召し上げられ、秀吉の家臣・蒲生氏郷(がもう うじさと)が城主となります。鶴ヶ城の名前の由来は、蒲生家の鶴の家紋にちなんで名づけられたといわれています。また若松の地名も、蒲生氏の氏神が祀られている滋賀県の馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)の「若松の杜」に由来するといわれています。

江戸時代に入ると徳川三代将軍家光の異母弟の保科正之(ほしな まさゆき)が、会津松平家の初代当主となります。正之は、二代将軍秀忠の妾の子として生まれたため、徳川家には知らされずに、幼少期を旧武田家家臣の保科正光の養子として育てられました。偶然正之の存在を知った家光が後押しをしたことにより、正之は21歳で世に出ました。家光に認められ重用されました。また正之は会津藩の民からも愛されたといわれています。家光から松平の姓を名乗るように勧められますが、育てられた保科の姓を亡くなるまで名乗りました。正之が亡くなった後は、まさきの子孫が当主を引き継ぎますが、3代目から松平の姓を名乗っています。正之の死後は、正之が生前に神道を学んでいたこともあり、猪苗代町の土津(はにつ)神社に主祭神として祀られています。※土津神社の説明はこちら

「会津家訓十五箇条」は、会津藩の家訓(かきん)で家光が病床で正之に語った遺言がきっかけとなり、作られたと言われています。この十五箇条の第一条には「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記され、家光と正之の関係の深さを知ることができます。

幕末の当主・松平容保(まつだいら かたもり)は、「会津家訓十五箇条」に強く影響を受けたため、佐幕派の中心的人物となりました。そのため戊辰戦争の戦いのひとつの会津戦争では、鶴ヶ城が戦場となり新政府軍を相手におよそ1ヶ月のあいだ籠城し、激しい戦闘が行われました。この戦争は、白虎隊が戦ったことで有名です。

白虎隊は、会津藩士の15歳前後の男子の部隊で、およそ340名いたといわれています。このうちの戦闘中に鶴ヶ城の北東にある飯盛山(いいもりやま)に逃げ延びた7名が、敗戦が明らかな戦況を憂い自刃(じじん)したといわれています。白虎隊340名のうち50名ほどは戦死したと考えられていますが、残りの290名は会津戦争を生き延びたといわれています。

会津戦争で天守閣などの建物が激しく傷みましたが、修復されることはなくその後解体されてしまします。

太平洋戦争中には、陸軍の訓練施設として使用されていました。また戦後には一時期、競輪場が設置されていたそうです。

平成22年の修復では、再建前と同じ赤瓦に葺き替えられました。

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