萩城下町(はぎじょうかまち)【山口県萩市】

萩城下町は、萩城があった指月山(きづきやま)の東側に面した橋本川(西側)と松本川(東側)に挟まれた中洲に発展しました。現在も長州(萩)藩時代の武家屋敷や豪商の建物がそのまま残り城下町の雰囲気を楽しむことができます。また萩の町は、古地図をもって歩いても迷わないほど変わっていないと言われています。

2015年には、軍艦島などと共に明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業 としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。

高杉晋作

城下町の見所は、木戸孝之旧宅や高杉晋作誕生地、当時の豪商・菊谷家住宅などを見ることができます。また菊谷家住宅の向かい側には、観光案内所があり散策マップをもらうこともできます。
時間があれば近くにある萩博物館も合わせて見学するのもおすすめです。歩きたくない方には、少し料金が高いですが人力車で案内を聴きながら巡ることもできます。
また古い建物以外にも萩焼のお店や萩のお土産のお店もあり、萩の名物の夏みかんのマーマレードや丸漬けも買うことができます。

城下町の建物については、萩市観光協会のホームページの説明をご覧ください。

萩博物館の公式ホームページはこちら

また大型バス駐車場には、久坂玄瑞進撃像(くさかげんずいしんげきぞう)があります。久坂玄瑞は、長州藩士で藩医久坂家の三男として生まれ、病気で家族が次々となくなり15歳で1人となります。その後医学の道を進むも幕末の時代には松下村塾で吉田松蔭に学びました。松下村塾では高杉晋作とならび「村塾の双璧」と呼ばれるようになります。
吉田松陰が亡くなった後は、長州藩の尊王攘夷派の中心人物となり活躍するも、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)にて同じ長州藩士の寺島忠三郎と刺しちがえて自害しています。享年25歳でした。

■長州藩と萩城について
毛利家は関ヶ原の合戦で徳川軍と内通をするも大阪城で見つかった豊臣側の連判状に名前があったことを理由に、徳川幕府により112万石から長門国と周防国の29万8千石へ減封されています。また幕府の命令により広島城にかわる居城を萩に指定されたため、現在の萩市指月山の麓に萩城を築きました。幕末までは長州藩の中心都市として発展しましたが、文久9年(1963年)に藩主毛利敬親によって、萩城は艦砲攻撃に弱いことなどの理由から幕府の許可を得ずに現在の山口市山口城に居城を移転し萩の城下町としての役目が終わりました。その後、明治に入り廃城令により、お堀や石垣を除いて取り壊されました。現在は国の史跡に指定され指月公園として残されています。

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