広島平和記念公園(ひろしまへいわきねんこうえん)【広島県広島市】
平和祈念公園は、昭和24年(1946年)に成立した広島平和記念都市建設法によって整備された公園です。バスツアーの場合は、原爆ドームで近くでバスを下車し広島平和記念資料館まで片道を歩きながら見学します。そのため、以下には見学の順に案内を記載しました。
【原爆ドーム】
原爆ドームは、大正4年に広島の物産を紹介する「広島県物産陳列館」(のちに広島県産業奨励館)として建築されました。設計者はチェコの建築家ヤン・レツルです。建築当初は全体が煉瓦造りの3階建てで、半円形の部分が5階建てでした。当時としては、2階建ての建物が多かったため、広島の町のランドマークとなっていました。
昭和20年8月6日8時15分に広島県産業奨励館の南東約160メートル、高度約600メートルの場所で原爆が爆発しました。爆風が垂直に近かったため建物が吹き飛ばされることになく残りましたが、建物は炎上し建物の中にいた方は全員亡くなられました。
また半円形状の屋根に貼られていた銅板が熱風で溶け、鉄骨の部分だけが残りました。
戦後50年以上が過ぎて、原爆ドームの老朽化が進み保存のため鉄骨には塗料が塗られています。平成8年12月には、世界文化遺産に登録されました。
【平和の鐘】
昭和39年9月に「原爆被災者悲願結晶の会」により核兵器や戦争のない世界の達成を目指し建立されました。
撞座(つぎざ 意味:鐘つき棒が当たる場所)には、原水爆禁止の思いを込めて原子力のマークが、反対側には鐘をつく人の心を映し出す鏡が飾られています。
この鐘は、宗派などに関係なく平和をお願う方であれば、どなたでも撞くことができます。
また鐘のまわりの池には、千葉県の2000年前の遺跡から発見された蓮の種から発芽した蓮が植えられています。被爆当時、蓮の葉で皮膚を覆い火傷の痛みをしのいでいた方がいたそうです。
また平和の鐘は、残したい日本の音百選に選ばれています。
【原爆の子の像】
原爆の子の像は、モデルとなった佐々木禎子さんの同級生の「禎子さんを始め、原爆で死んだ子の霊を慰める石碑を創ろう」という提案で募金が集められ、1985年5月に完成しました。
像の下の石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれています。
佐々木貞子さんは、2歳の時に広島で被曝しました。一緒に被爆した母とは違い11歳までは元気に成長しました。しかし小学6年生の11月ごろから首にしこりができ体調を崩し始め、翌年2月には亜急性リンパ腺白血病と診断されました。同年10月に父親にお願いしたお茶漬けを食べた後、「お父ちゃん、お母ちゃん、みんなありがとう。」と呟いたのが最後の言葉といわれています。
禎子さんが入院していたときにお見舞いとして名古屋の高校生から千羽鶴が送られたことをきっかけに、禎子さんは病床で折り鶴を折りはじめます。千羽鶴を折れば元気になると信じて折り続けていたといいます。亡くなるまでに2000羽以上の千羽鶴を折ったといわれています。
【平和の灯(ともしび)】
平和の灯の火種は、全国の12宗派の「宗教の火」と全国の工場の「産業の火」と厳島の弥山の「消えずの霊火(れいか)」が合わせて灯され、現在まで一度も消えずに燃え続けています。この灯火が消えるのは、地球上から戦争が無くなったときといわれています。
火台は、昭和32年(1957年)8月に建立され、手首をあわせて掌を開いた形を表現しています。
【原爆死没者慰霊碑(げんばくしぼつしゃいれいひ)】
正式には広島平和都市記念碑(ひろしまへいわとしきねんひ)といいます。
慰霊碑は、昭和27年(1952年)に完成し、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と書かれています。慰霊碑は、原爆ドームと広島平和祈念資料館を結ぶ直線上に設置され、正面から見ると慰霊碑と屋根の間に原爆ドームを見ることができます。
「原爆犠牲者の霊を雨露から守りたい」と作られた屋根は、コンクリートのため老朽化が早く1985年に現在の御影石の屋根に改築されています。
毎年8月6日の広島原爆の日には、平和記念式典が行われ原爆死没者名簿が納められます。2019年の原爆死没者名簿は、31万4118人となっています。
【広島平和記念資料館】
広島平和記念資料館は、昭和30年(1955年)原子爆弾による被害を世界中に伝え、また核兵器廃絶と世界恒久平和の現実に寄与することを目的として開館しました。
令和元年4月にリニューアルオープンし、全ての常設展示を見ることができようになりました。
人類初の原爆による被害をジオラマや写真などを通して学ぶことができます。
しかし刺激の強い展示物も多いため、無理はせずにご見学ください。
平和祈念資料館の公式ホームページはこちら。
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