一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだにあさくらしいせき)【福井県福井市】

一乗谷朝倉氏遺跡は、戦国時代に越前国を中心に栄えた朝倉氏の一乗谷城とその城下町の遺跡です。一乗谷城は山城ため遺跡の見学の中心は復元された武家屋敷や庶民の街並みになります。

平成19年に朝倉氏遺跡自体が、国内に6カ所しか指定されていない三重指定(特別史跡・特別名勝・重要文化財)となりました。

【朝倉氏と一乗谷について】
軍記物「朝倉始末記」によると文明3年(1471年)に5代の朝倉敏景(あさくらとしかげ)によって福井市黒丸町から一乗谷へ拠点を移したとされています。

応仁の乱(1467年)以降は、荒廃した京都から多くの公家や僧侶・学者などが移り住んだため、7代の朝倉孝景(たかかげ)の時代には人口が1万人を超え「北の京」とも呼ばれました。

11代朝倉義景は、室町幕府15代将軍足利義昭(あしかがよしあき)らとともに織田信長と対立したため、一乗谷の戦い(刀根坂(とねざか)の戦いとも呼ばれる)にて戦うことになります。

しかし織田信長により複数の主要な砦を奪われたことにより、義景は一乗谷城にて戦うことなく城から逃げました。賢松寺にて従兄弟の朝倉景鏡(あさくらかげあきら)の裏切りにあい自害。その後、朝倉氏の旧家臣によって一揆が起きたが、これも織田信長によって平定されました。

その後、越後国は柴田勝家によって拠点を福井城に移されたため、土砂や田畑の下に埋もれることとなりました。

一乗谷朝倉氏遺跡の公式ホームページはこちら

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