松陰神社・松下村塾(しょういんじんじゃ・しょうかそんじゅく)【山口県萩市】
松陰神社は、萩藩士の吉田松陰らを祀っている神社です。敷地内には、吉田松陰が教えた松下村塾や松蔭が幽囚された旧宅、吉田松陰歴史館などがあります。
駐車場の近くには小さな売店もあり、萩のお土産で有名な「夏みかんの丸漬け」や山口の地酒などを買うことができます。
また松下村塾は、2015年に明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業としてユネスコの世界文化遺産に登録されています。
■松陰神社について
松陰神社は、明治23年(1890年)に吉田松陰の実兄である杉民治(すぎ みんじ)が、松蔭の遺言により愛用していたい赤間硯と松蔭の書簡を御神体として祀り創建されました。
現在は、松下村塾で松蔭の門下生であった伊藤博文・山県有朋・高杉晋作・木戸孝允なども御祭神として、同じ敷地内にある松蔭神社の末社・松問神社にて祀られています。
また東京都世田谷区若林にも松陰神社があり松蔭をはじめ松下村塾の多くの門下生も祭神として祀られています。
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■松下村塾について
松下村塾は、天保13年(1842年)に吉田松陰の叔父にあたる玉木文之進(たまき ぶんのしん)が私塾として開塾しました。幼少の松蔭も松下村塾で学び、塾生は、武士だけではなく町民など身分に関係なく入学できたといいます。(萩藩の藩校として知られる明倫館は、正式に武士として認められた者しか入学できませんでした。)
安政4年(1857年)からは、藩校の明倫館の塾頭を務めていた松蔭が松下村塾を引き継ぎました。
松下村塾では、講師が一方的に教えるのではなく塾生と一緒に議論することが講義の中心だったといわれています。
塾生には、幕末・明治維新で活躍した久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など90名あまりがいました。
■吉田松蔭について
松蔭は文政13年(1830年)に長州藩氏 杉百合之助の次男として生まれました。4歳の時叔父で山鹿流(やまがりゅう)兵学師範の吉田大介の養子となり兵学を修めます。その後、9歳で長州藩の藩校・明倫館で兵学師範になり、11歳の時には藩主毛利敬親(もうりたかちか)への御前講義を行い才能を認められました。
アヘン戦争(1840ー1842年)で清が負けたことにより、山鹿流兵術が時代遅れであることを悟ります。
20歳の時に九州遊学をした際に知り合った宮部鼎蔵(みやべていぞう。熊本藩士)と、22歳の時に東北遊学を計画するも通行手形の発行が間に合わず脱藩し出発します。そのため後に士籍剥奪・世禄没収の処分を受けることになります。
23歳の時にペリーの黒船を実際に見て、西洋の文化を学ぶために留学を計画します。翌年、下田沖に停泊していたアメリカのポーハタン号に乗船するも渡航を拒否されたため下田奉行所に自首し投獄されます。25歳の時に出獄を許され杉家で幽閉処分になります。その後、27歳の時に杉家の敷地に松下村塾の名前を引き継ぎ開塾します。
安政5年、28歳の時に幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことをしり、孝明天皇に謁見する老中・間部 詮勝(まなべ あきかつ)の襲撃と条約破棄を目的とした襲撃計画を立案しますが、塾生などまわりの反対を受け断念します。その後も幕府を批判し討幕を目指しますが、長州藩によって危険視され再度投獄されます。
29歳の時、儒学者で攘夷運動を訴えていた梅田雲浜(うめだうんぴん)が安政の大獄で投獄されると、面識のあった松蔭も江戸の伝馬町牢屋敷に移されます。雲浜との会話を問われただけなのにも関わらず、自ら老中襲撃計画を告白したため、安政6年10月27日(西暦1859年11月21日)に伝馬町牢屋敷にて斬首されます。享年29歳でした。弟子たちに向けて辞世の句「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」を残しました。
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